大分県産木材を使用した新築住宅に最大50万円のポイントが付きま す。ポイントは、日田家具と交換できます。

昨年度に引き続き、令和3年度の「おおいた材住宅ポイント事業」の申請が始まっています。
この事業は、大分県内に新築する戸建住宅に大分県産木材を10㎥以上使用する場合に30万円から50万円相当のポイントを付与するもので、ポイントは県産の家具・木工品などと交換できます。対象は令和4年2月28日までに棟上げ完了の住宅で、申請期間は令和4年2月15日までとなっています。(http://www.oitakenmoku.jp

 

 

 

住宅ポイント事業に合わせて、日田家具の展示会を開催します。

この事業に合わせ日田家具工業会では、家具の展示会を10月16日から11月28日(10時~16時)の間、日田玖珠地域産業振興センターの2階展示場で開催します。出展は、産業観光受入施設の家具メーカー7社(朝日木工、青栁インテリア、新象、ベストリビング、ヤハタ木工、日東木工、タカセインテリアコーティング)で、テーブルやソファー、椅子などを展示します。
住宅を建てる際は、なかなか家具まで気が回らないものです。期間中の日曜、祝日は日田家具工業会のメンバーが案内しますので、相談してみてはいかがでしょうか。(http://hitakagu.com)

 

 

 

産業観光ガイド“ひたりずむの会”で 現地研修に出掛けてきました。(その2)

梅雨空の7月6日、産業観光ガイド“ひたりずむの会” で中津江方面に出掛け、宮園神社、鯛生金山、帰路に力峰彫刻の工場を見てきました。

 

杉の大木に会ってきました  宮園津江神社(日田市中津江村丸蔵地区)

 ひたりずむのパンフレットに登場する宮園神社の杉。どのくらいの大きさなのか実物を見に行きました。鳥居の近くにある参道脇の杉は、数人で手をつないでも届きそうにない幹回り、40メートル以上はある樹高、立派な枝張り、その姿はまさに威風堂々。今から530年前の延徳3年(1491年)、日田地方で初めて杉が植えられたのが宮園神社境内と言われています。

 うっそうとした神社の森を形作っていた30本の杉の大木は、最も大きな木で幹回り6.75メートル、樹高51.5メートルもありましたが、平成3年9月の台風19号の強風で大半が倒れ、社殿、楼門などを壊し、現在は6本しか参道脇に残っていません。日田市友田にある日田杉資料館には、倒れた杉の1本が展示されており、長さ13メートル、直径88センチの宮園杉が静かに横たわっています。

 

参道の入り口の杉

 

写真奥にある杉は参道入り口の杉

 

大分福岡両県にまたがる大金山 鯛生金山(日田市中津江村鯛生地区)

 明治27年(1894年)、今から127年前、日田市中津江村鯛生の山中で行商人が拾った石(金鉱石)が、かつて東洋一の産金量を誇ったといわれる鯛生金山の歴史の始まりとなります。

 明治30年頃から手掘りによる金の採掘がはじまり、大正時代になると英国人の経営に移り、機械化による採掘で一気に産金量が増加していきます。その後も産金量は増え昭和12年には国内トップとなり東洋一の隆盛を極めます。太平洋戦争により採掘は休止となり、昭和31年から本格採掘が再開したものの、金鉱脈の枯渇により昭和47年(1972年)閉山となります。

 約80年間で掘った金の産出量は、約37トンで菱刈、佐渡、鴻之舞、串木野に次ぐ国内5位、掘り進んだ坑道の長さは約110キロ、操業時は、中津江村の鯛生坑口と福岡県矢部村の坑口は車で通りぬけが可能でした。

 現在は、地底博物館鯛生金山(1983年開館)となり、2007年には近代化産業遺跡(経産省)に指定されました。

 地底博物館の駐車場の脇に、金山で殉職された方々の慰霊碑(作:北村西望)があります。暗く危険な採掘現場で、金鉱脈に発破用の穴を掘り進む作業員の様子など、3枚の銅板に往時の様子が刻まれています。

 山深い中津江村鯛生に忽然と湧いたゴールドラッシュ。多くの鉱山関係者が往来し、賑わっていた鯛生集落は、今は金山発見前のひっそりとした山村に戻っています。

 

匠の技が木を彫る 力峰彫刻(日田市高瀬)

 神社仏閣の建物の装飾彫刻を製作している力峰彫刻。先代が今から55年前に力峰彫刻を構え、2代目の森さんが工場の案内をしてくれました。

 現在、平成28年熊本地震で倒壊した阿蘇神社楼門(国重要文化財指定)の修復に携わっており、被害にあった彫刻と全く同じ彫刻を彫る作業をしていました。楼門の彫刻の実物を和紙に写し取り、欅の板に形を映しながらノミで彫っていきます。実物を見ながら、曲線や膨らみ、彫る深さなど細かな作業を繰り返します。この精巧な技術を可能にするのはノミ。台上に大小様々な30数本のノミが置いてあり、「すごいノミの数ですが?」と森さんに尋ねると「本数ははっきり数えたことないですが、どのノミが必要かはすぐ分かります。そっちの収納箱にもたくさん入ってますよ。」横に置いてある5段の収納箱を引き出すと、ノミ、ノミ、ノミ・・・。百本以上のノミを駆使して作り上げられた彫刻は、この後楼門に取り付けられます。文化庁によると、楼門は1849年に建立され、「楼門は三間一戸二階二重門で,神幸門と還御門は四脚門形式である。いずれも,軸部や組物などを波頭紋や雲紋の華やかな彫刻で飾っている。」とあります。楼門の再建が完成するのはしばらく先になるそうですが、一彫り一彫り刻んだ力峰彫刻の技が形となり、神社で来訪者を迎えることになります。

 

 

産業観光ガイド“ひたりずむの会”で 現地研修に出掛けてきました。(その1)

梅雨空の7月6日、産業観光ガイド“ひたりずむの会” で中津江方面に出掛け、松原ダム、下筌(しもうけ)ダムを見てきました。

 

ダム建設
日田市には、国土交通省が管理する松原ダム、下筌(しもうけ)ダムと、水資源機構が管理する大山ダムがあり、洪水調整などの治水、河川の維持用水・発電用水・水道用水・農業用水・工業用水などの利水の役割を担っています。
昭和28年の西日本水害で筑後川流域も甚大な被害を受けました。その後、当時の建設省は多目的ダムによる洪水調整を図るため、筑後川上流に松原ダム、下筌ダムを建設する「筑後川水系治水基本計画」を策定しました。

 

下筌ダム

下筌ダムは、日田市中津江村と熊本県小国町の県境を流れる筑後川上流の津江川をせき止めたアーチ式コンクリートダムで、昭和48年に完成した高さ98m、堤頂長248.2mの曲線がきれいなダムです。ダムの右岸側(小国町側)にある下筌ダム管理支所前の「下筌ダム」名板の文字は、室原知幸氏が書いた「下筌ダムダム反対」の看板から写し取ったものでした。
ダム本体を見た後、ダム左岸側(中津江村側)にあるダム資料館「しもうけ館」に移動し、下筌ダム管理支所 長田支所長さんからダムの役割、洪水調節などの説明を受けました。特に昨年7月の令和2年7月豪雨では、昭和48年のダム完成後初めて「緊急放流(異常洪水時防災操作)」を実施し、7月7日・8日にクレストゲート(非常用洪水吐き)から放流し、下流の松原ダムと連動した洪水調整を行い、下流域の被害を軽減したそうです。

 

蜂の巣城闘争
続いて、蜂の巣城闘争の記録映像を鑑賞。室原知幸さんのダム建設反対闘争は、建設予定地での蜂の巣城(反対派の砦)の建設、代執行への抵抗、そして法廷での闘争など、昭和32年のダム計画地元説明会に端を発し、室原さんの死去(昭和45年6月)、遺族との和解(同年10月)により13年間の闘争は終わります。室原さんが闘争で言い続けてきた「公共事業は、理に叶い、法に叶い、情に叶うものでなければならない」は、以後の国のダム建設に大きな影響を与えていきます。
ダム下流域で暮らすひたりずむ会員からは、「こんな出来事が上流であったことすら知らなかった。」「蜂の巣城闘争は聞いたことがあったが、詳しく知ることができた。」「梅雨の大雨の時、安心して寝ていられるのもダムの恩恵であり、墳墓の地を追われることになった水没者への感謝を忘れてはならない。」との感想が出ていました。
小さな山村で起きた国を揺るがす大きな出来事の真実を知ることができました。

 

下筌ダム(梅雨時期は大幅に貯水量を減らしています。)

 

アーチ式コンクリートダム(堤頂部中央がクレストゲート、本体中央部がコンジットゲート)

 

下筌ダムの名板

 

しもうけ館(蜂の巣城闘争の資料が展示されています。)

 

蜂の巣城(昭和39年代執行前の砦)

 

松原ダム(重力式コンクリートダム 高さ83m 堤頂長192.0m)

明星小学校6年生が日田下駄鼻緒付けを体験しました。

6月23日、別府大学明星小学校6年生51名が修学旅行で日田市にやってきました。

午前中は、令和2年7月九州北部豪雨で大きな被害を受けた天ヶ瀬温泉を訪れ、被害の状況、復旧・復興の取組みを天ヶ瀬温泉未来創造プロジェクトの関係者から聞き、その後、温泉街を歩いて見学しました。

午後からは、日田下駄鼻緒付け体験と、咸宜園教育研究センター・豆田町散策を1組2組交互に体験・学習しました。

日田下駄鼻緒付け体験は、日田玖珠地域産業振興センターで大分日田げた組合員の指導でマイ下駄づくりにチャレンジ。予め決めていた下駄台を受け取り、次は好みの柄の鼻緒を選びます。特に女子は下駄台との色合いが気になるのか、下駄台にいくつもの鼻緒を重ねて柄を決めていました。

 

 

下駄台と鼻緒が揃ったところで、着席して鼻緒付けの体験です。まず、山林から下駄の材料となるスギ根株の伐採と運搬、製材所での下駄台づくり、下駄工場での成形、焼き、塗装など日田下駄ができるまでの様子をスクリーンの映像で学びます。

その後いよいよ鼻緒付け。鼻緒の両端のひもを結び、次に下駄台のかかと側二つの穴、つま先側穴に鼻緒を通しひもを結ぶ作業をスクリーン映像を見ながら進めていきますが、全員初めての体験で思うようにいきません。

 

 

 

指導役の組合員さん8人の手を借りながら何とかマイ下駄が完成。早速、靴を脱いで下駄の鼻緒に足を通し履き心地をチェック。中には下駄を履いたまま帰りのバスに乗り込む児童もおり、普段履きから外出履きまで日田下駄を履いて楽しんでくれるものと感じました。

 

 

 

今回の産業観光“ひたりずむ”体験に対して日田市から全員に、校章・学校名入りの「日田杉コースター」をプレゼントしました。

 

 

やまめの親子丼を食べました。

ご飯の上にたっぷり盛られた、山女魚(ヤマメ)の刺身、山女魚の魚卵。名付けて「やまめの親子丼」。
刺身は、体長30センチ級の尺山女魚を使い、餌にエビを混ぜているため淡い桃色で柔らかい食感。
魚卵は、黄金色。口に入れるとプリップリッ感半端ない。噛んだと思ったら口の中を転がりまわり、なかなか噛み潰せない。やっとのことで捕まえて噛んでみると、表面の膜が固く市販のイクラと噛み応えが大違い。噛み潰してみるとトロトロの黄身が口の中に広がる。
 
この「やまめの親子丼」を5月から新メニューとして出しているのは、日田市前津江町の「やまめの郷」さんで、産業観光“ひたりずむ”「水のひたりずむ」の受入登録施設です。
 
料理を平らげ満足していると、店主の綾垣一喜さんがやってきたのでお話を伺いました。
この「やまめの郷」は、昭和48年、綾垣さん25歳の時に山女魚の養殖をはじめ、4年後に山女魚の料理店を開業。さらにきれいな水を求めて昭和61年に現在地に移転しました。

「山女魚養殖にはきれいな水、これにつきます。養殖場の水は釈迦岳からの清流をひき込み、だからこそきれいな山女魚が育ちます。これまで、幾度となく水害で施設が壊れ養殖に大きな損害を被ったこともあります。川魚の養殖というのは、水の恵みも水の災いも受ける、これは当たり前のことです。」と、笑顔で苦労話をしてくれました。
料理について伺うと、
「やまめフルコースは、刺身、塩焼き、からあげなど11品が付きます。このほかにも、甘露煮、うるか、卵のしょうゆ漬などの加工品もいろいろ研究して作っています。山女魚の旨さをさらに味わってもらいたいので、今回「やまめの親子丼」をメニューに加えました。」
  
料理店に隣接する10余りの養殖水槽には70万尾の山女魚が泳ぎ、このほか、30センチ級の山女魚が獲れる釣り堀、4月下旬から5月上旬には満開のシャクナゲも楽しめ、さらに釈迦岳の山頂、新緑、紅葉も観ることができます。
最後に「これからも山女魚を使った新しいメニューを作っていきますよ。」創業から45年、幾多の苦難も喜びに変えてしまう綾垣一喜さんの山女魚に寄せる熱い想いを感じました。

 

やまめの親子丼

 

ズーム1

 

ズーム2

 

ズーム3

 

やまめの郷が放映されたKBC九州朝日放送の番組動画をご覧ください。

 https://youtu.be/FFGOYtKc5uM

産業観光ガイド“ひたりずむの会“で現地研修しました。

4月23日、「原木市場を知る」「杉の大木に触れ日田林業の歴史を知る」「日田下駄を知る」と題して、産業観光ガイド“ひたりずむの会“メンバー8人で現地研修を行いました。

 

  • AM9:30~ 原木市場の競り市【九州木材市場】

 「さあ、次は直材 20! さあどうぞ!」威勢の良い田中昇吾社長の掛け声が場内に響きます。製材所などの関係者数人が、金額を書いた値札を田中社長に手渡すと、「230番さん、1万2千3百円」。落札の値札だけ手元に残し、ほかの札は破りパッと頭上に放り投げます。 

広さ約4ヘクタールの原木市場内に、丸太の長さ・大きさごとに仕分けられ、整然と山積みされた杉丸太の中を、競り関係者50人ほどの列が進み、次々に杉・桧の丸太が競り落とされていきます。九州木材市場さんではこのような市の風景を毎月2回見ることができます。

田中社長に今回の市の結果を聞くと「丸太の価格が1㎥当たり*杉で2,000円、桧で5,000円程度、これまでの市より高値となっています。この要因は、アメリカが住宅建築ブームで米松などの木材価格が高騰しているためで、さらに船による輸送コストも上昇気味で、これまで外材だった建築材を国内材で賄うため需要が高まっている分、木材価格が上昇しているのです。」との説明でした。「一時的な高値でしょうね。国内の住宅需要は減少している現状で、外材を国内材に当面置き換えただけですから。今後、高値で安定すれば、上がった分を山主さんにお返しできるのですが。」と高値に浮かれることなく、日田林業の将来を冷静に見つめる田中社長でした。

 *1㎥当たり=木材の体積。長さ4m末口φ20㎝の丸太の場合で約6本分

 

値札を受け取る田中省吾社長

 

入札金額を確認し、落札者番号と金額を発表

不落の値札を破り放り投げる。(空の部分を舞う)

 

競り関係者(後方の女性は産業観光ガイド“ひたりずむの会“メンバー)

 

  • AM11:00~ 日田下駄の工場【月隈木履】

 大分日田げた組合の月隈木履さんで下駄の製造工程を見学しました。説明は、2月に放送されたブラタモリで日田下駄の解説役を務めた、同工場の代表 伊藤高広さんです。

この工場では、四角形の杉材の台(下駄枕)を削り・焼き・磨き・塗り・鼻緒を付けて仕上がるまでの10ほどの工程を見学しました。

「僕が生まれる前から動いている、働き者の機械です。」下駄枕を成形する工程は6台の機械が活躍しています。下駄の形・厚さに合わせて機械の刃物を調整し、足裏に接する部分、地面に接する部分の繊細な仕上げを行います。

成形された下駄台は、バーナーで表面を焼き磨きをかけると、年輪模様が浮き出てきます。この工程を「うづくり」と呼び、足裏に木の心地良い感触が伝わる技法です。

月隈木履さんには、工場の隣に直販ショップがあり、一本歯下駄、鉄下駄、左右合わせると円形になる下駄など、様々な形の下駄を履くことができます。

 

伊藤高広さんの説明、下駄枕を成形していく各種機械

 

乾燥のため積み上げられた輪積み

 

  • PM12:30~ 下駄枕を作る【猪熊製材所】

 猪熊製材所さんは、下駄枕(四角形の杉材の台)を製作しています。訪問した時は丁度、同製材所の代表 猪熊英一郎さんが直径70㎝、長さ100㎝程度の丸太をチェンソーで切断していました。下駄枕の材料となる杉丸太は、樹齢70年超えの杉大木の根元部分を山から運び出し、工場でチェンソーと帯鋸製材機で注文サイズに切断していきます。

 「下駄に節目があったりすると割れたりするので無節の部分しか取りません。それと、乾燥してしまうと下駄屋さんでの成形加工がやりにくいので、少し水分を残した状態で出荷します。なぜ根元部分を使うのかは、山に残さない有効利用もありますが、杉材にこだわった日田下駄の履き心地の良さは、この根元部分を使っているからでしょう。」と大きな根株が山積みされた製材所でお話してくれました。

猪熊英一郎さんの説明

根株をチェンソーで切断

 

根株を下駄枕に切断していく帯鋸製材機

出荷前の下駄枕

 

根株の断面(年輪に割って入っているのが節目)

 

  • PM 1:10~ 巨木が横たわる【日田杉資料館】

 日田杉資料館に入ると、木造の建物の大空間が広がり、1階に杉の巨木5本が堂々と横たわっています。日田杉の起源と言われる宮園神社杉(末口径88㎝)をはじめ、大原神社杉(86㎝)、本宮神社杉(72㎝)戸山神社杉(92㎝)、行者杉(東峰村・92㎝)が並び、根元部分の直径は人丈を上回ります。恐る恐る巨木に上がってみるとその大きさが実感できます。

このほか建物の壁には、長さ10mもある日田林業500年の年表、伐採作業や筏流しなどの写真、2階には、鋸・斧などの道具類、作業風景の写真などが展示されています。

 特に、大きな杉丸太を担ぎ足場の悪い丸太の上を運びながら積み上げている女性達の写真にはメンバー一同驚き。機械がない時代の作業の大変さを知り、改めて森林資源が、さらに林業に携わる先人が、日田を支えてきたことを再確認しました。

 

巨木に上がった産業観光ガイド“ひたりりずむ”の会“メンバー

 

大きな杉丸太を丸太の上に積み上げていく女性達

産業観光ガイド“ひたりずむの会“例会 「江戸時代の日田を知る」

3月25日、産業観光ガイド“ひたりずむの会“例会で「近世の日田について」学びました。

”ひたりずむの会“は、旅行団体が工場見学に訪れた際に、施設から施設への移動の車中で日田市の案内・紹介をしており、歴史についても知っておく必要があることから、今回の例会のテーマとしたものです。

講師は、市文化財保護課 吉田博嗣課長で、日田が題材となったブラタモリで見事な解説をした方です。

 冒頭「皆さんの江戸時代の印象は、いつも侍同士の斬り合いと思っているでしょうが、江戸時代は265年間の平和な時代でしたから、皆さんの印象はテレビ番組からの先入観です。」の一喝に、会員一同苦笑い。

 

  • 全国4つの代官所のひとつ 日田代官所

江戸時代の日田は、幕府直轄地で西国郡代(西国筋郡代)の日田代官所が置かれ、関東郡代、美濃郡代、飛騨郡代と合わせ、各藩の見張り役として、その支配力は絶大でした。

 日田代官所には、江戸詰や出張所も含め35人くらいの役人が勤め、九州内の幕府領(最盛期は16万石余)の治安維持、年貢徴収などの職務にあたっていました。

  • 幕府の要職を歴任した 川路聖謨(1801~1868)

 日田代官所の役人 内藤吉兵衛の子に、後に幕府勘定奉行となる「川路聖謨(かわじとしあきら)」がいます。川路は、NHK大河ドラマ「青天を衝け」にも登場し(俳優の平田満さんが演じる)、激動の幕末で活躍し、安政元年(1854年)には日露和親条約を結び、最期は慶応4年(1868年)、新政府軍による江戸城総攻撃の予定日であった3月15日にピストル自殺を図り、その生涯を閉じました。

 

  • 金融貸付業 掛屋

 幕府の公金を取り扱う商人「掛屋(かけや)」は、豆田町、隈町に7軒あり、その資金を基に九州の大名などに貸付ける「日田金(ひたがね)」で大きな利潤を得て、日田は九州の金融経済の中心地でした。また商人たちは、その財力で日田の道路や水路整備などの大規模な公共事業を行いました。

 

このほかにも日田代官は代々、杉の植林・造林を奨励したり、通船や筏による下流地域への水運にも関わるなど、日田林業の振興や地域経済の発展を図ってきました。産業観光の資源である林業、木材産業、醸造業などは、この歴史抜きでは語れないことを会員一同再確認する機会となりました。

 

ミツマタの花が咲いていました。

3月17日、市内中津江村の九州最古といわれる「伝来寺庭園」にあるエドヒガン桜の大木の写真撮影に行きました。お寺の本堂越しに見える桜は、毎年見事な花を着けてくれます。

 

次に、ミツマタの花の撮影。杉林のなかに咲いているとは言っても、どこに咲いているのか情報のないまま林道へ。車で林道を進むと、森林伐採現場があり作業している方に尋ねると、すぐ先の杉林にたくさん咲いているとの情報。

作業者の方の案内で車を進めていくと、カーブを曲がった途端、黄色い花畑が広がっていました。50年生ほどの杉と杉の間に低木のミツマタの黄色い花が辺り一面に咲き誇り、緑一色の杉林の中が華やいでいました。

作業者の方によれば、「ミツマタは杉林のどこにでもあるものではなく、窪地によく群生しており、今が丁度見頃の時期。冬の間は葉はなく、春になると花が咲き、その後葉が茂り、成長する過程で枝分かれは必ず三又になり、ここからミツマタという呼名がついたのでしょう。木の皮は和紙や紙幣の原料となります。」と、仕事の手を止めてわざわざ案内してくれた「きやどん」(木の伐採をする人の呼称)に感謝でした。

 

 

 

 

産業観光ガイド“ひたりずむの会” 山林伐採現場、酒蔵などを見てきました。

天候に恵まれた3月8日(月)、ひたりずむの会会員7人で、山林の伐採現場、酒造会社、話題の「進撃の巨人」像を見学してきました。

 

①山林伐採現場

伐採現場は、急峻な地形に育った樹齢40年程度(樹高20~30m)の杉を伐採しており、作業道路を200メートルほど徒歩で上ると、高性能林業機械が動いていました。チェンソーで切り倒した杉の枝を落としながら4メートルに切断するハーベスター。切断した杉丸太をつかみ20本ほどを荷台に載せ運搬するフォワーダー。オペレーターの見事な機械操作に見とれてしました。

この見学は、日田市森林組合の協力により実現したもので、現場では同組合の柿本課長から高性能林業機械による杉の伐採・切断・搬出の説明を受け、「戦後の植林で市内の山林が一斉に伐期を迎えており、多量の杉材を生産するために機械化が進んできた。」

改めて伐採作業の大変さを知ることができると同時に、林業現場の機械化が進んでいることに驚きました。

急峻な伐採現場
ハーベスターによる切断作業
ハーベスターによる集材作業
フォワーダーによる搬出作業
柿本課長からの説明

②井上酒造

 「みなさん、ようこそいらっしゃいました。」創業217年の井上酒造の井上百合社長の明るい声と笑顔に迎えられた。酒蔵へ案内されるとなんとも芳醇な薫り。「たった今、お酒が搾りあがりました。」この薫りは酒粕でした。木造の酒蔵の2階へ進むと、昔の道具が展示され大きな木樽が目を引きます。この建物、中柱が一本もないことに気づきます。頭上には長さ16メートルの松材の梁が一定の間隔で整然と配置され、登録有形文化財の建物を支えています。

麹室に進むと、麹造りについて杜氏でもある社長から「酒造りは麹が命です。」寝ずの番で酒米の温度・湿度の調整し、絶好のタイミングで乾燥をかける。すると水が欲しくなった麹菌はコメの中に菌糸を伸ばしていく。「麹を可愛がりすぎても、ほったらかしでもダメ。子を育てるのと一緒です。」自社で酒米の栽培も行っており、酒造りへの情熱が伝わってくる見学でした。

酒蔵2階の展示物と16mの梁
今は使用していない麹室での説明

③清渓文庫

 井上酒造に隣接した井上家の住まいに設けられた「清渓文庫」。大正末期から昭和初期に大蔵大臣、日銀総裁を歴任した井上準之助の遺品や書、写真が展示されています。昭和7年2月9日、応援演説に向かう途中で暗殺され、当時着用していた遺品のコートには背中に3か所の銃弾痕。清渓文庫は井上準之助の雅号「清渓」から名付けられており、「遠図」の書、愛用の木製ゴルフパターなど、大正時代に建築された生家に開かれた文庫では、激動期に国を動かした経世家「井上準之助」の偉業を知ることができます。(入場料300円)

生家(大正時代築)
清渓文庫と杉玉

④進撃の巨人 エレン・ミカサ・アルミンの少年期の銅像

 話題の「進撃の巨人」の登場人物像に会うため、大山町にある大山ダムに移動。

まず、銅像の見学前に大山ダム本体に向かい、巨人の眼に人々がどのように映っていたのか、そのサイズ感を知るため大山ダムの堤頂から眼下の像を見てみました。ダム直下にある進撃の巨人像の周りには、平日にもかかわらず多くの見学者が訪れています。

 その後、ダム直下に移動し、巨大な壁を見上げている「エレン、ミカサ、アルミンの像」を見学。迫りくるコンクリートダムの巨大な壁は、圧倒的な威圧感があり臨場感はたっぷりでした。

ダム堤頂から見た銅像の設置場所(右側中央付近に銅像)
ダム堤頂の柵の間から見た銅像
エレン・ミカサ・アルミンの少年期の銅像(©諌山創/講談社)

 

自然な暮らし展 =これからの暮らしは、「日田」にある= に行ってきました。

 


今回、日田家具工業会の若手経営者の集団「日田家具衆(ひたかぐら)」が主催する「自然な暮らし展」が3月1から市内豆田の“まめやど”で開催されています。

家具デザイナー村澤一晃氏がデザインしたソファー、テーブルを日田家具衆が形にし、豆田町にある旧家「まめやど」に展示しています。このほかにも普段使いの食器類・木工品も置いてあり、すべて日田産、日田製に囲まれた暮らしが見れます。

 

 

 

旧家の一室に置かれたソファーに腰かけ、あなたは、なにを感じるでしょう・・・

 

開催期間  令和3年3月1日(月)~3月31日(水)

見学時間  10:00~18:00

場所    大分県日田市豆田町6-9  まめやど

問合せ   日田家具工業会 電話0973-23-6069